大阪大学大学院博士後期課程2年
中国 安徽省出身
2011~2012米山奨学生
汪 南雁(オウ ナンガン)

昨年四月、博士課程の進学で、七年半過ごした九州を離れ、大阪大学大学院に入学した。入学式で、総長先生の「夢は現実のものにするために存在する。夢に向かって一歩一歩、目の前の山を登りきろう!」という言葉は、一年経った今でも記憶になお新しい。そして、今年5月、テレビで80歳で3度目のエベレスト登頂に挑戦する三浦雄一郎さんの姿を見て、また総長先生の言葉を思い出し、人生は登山であると再び思った。

頂上に辿り着くにはたくさんのルートがあるが、どれも困難や誘惑や危険が待ち受けている。しかし、頂上の絶景と途中の楽しみがあるからこそ、皆困難に立ち向かって必死に頑張っている。そして、頂上に到達してはじめて、これまで経験した困難や危険などを笑いながら話せるようになるのだろう。一方、頂上に着いてから初めて目の前にもっと高い山があることを知り、その頂上を目指して出発する者もいるだろう。

自分が日本に来てからの9年間を振り返ってみると、これまで、いくつか夢の山を登ってきた。日本に来たばかりの私にとって、最初の山は、経済的に自立し、日本の国立大学に合格することだった。その山を登り切れば、自分の好きなことができると思っていた。そのため、朝はバイト、午後は日本語学校、夜もバイト、深夜は勉強という日々を過ごしていた。途中で、日本の謝る文化に戸惑い、悲しい思いをしたこともあり、バイト先で不公平な給料に腹が立ったこともあった。また、自転車で転び、前歯を折った小さな事故もあったし、冬瓜一個で一週間を乗り越えたこともあった。でも、一年半の努力はついに報いられ、無事行きたい大学に入れた。

大学に入ってから、気づいたのは現実が自分の予想と随分違うことだった。そこで、将来何になりたいかを考えながら、また次の夢を探し始めた。その時、見つけたのは高校の先生になることだった。それは子どもの頃の夢で、忘れそうになった夢であった。その夢を叶えるために、大学3年生の時から日本の高校の教員になるための勉強をし始めた。普通大学1年生から履修するコースだが、私が2年遅れたので、必死で皆に追いつこうと頑張った。しかし、私が所属している大学では、外国人が日本の教員免許を取得する前例がなかったため、教育実習をどうするかが大きな課題となった。半年間、学校側の返事を待った結果、つい大学の付属中学校で教育実習ができるようになった。そして、修士課程を卒業する直前に、私は高校教諭免許(一種)を取得することができた。大学の先生方をはじめとする方々の支援がない限り、私は夢へ一歩も進められなかったはずである。

一方、修士課程に進学した私は、より高い夢の山を目指し始めた。それは大学での教師になる山である。博士課程への進学を決めた時に、指導の先生方からの「博士はあまくない。修士の時の10倍の努力をしないと無理である。その覚悟をしてください」という教え諭す言葉は忘れられない。

先生がおっしゃる通り、博士課程に入ってからの1年間は、経済的な面でも、精神的な面でも経験したことのない困難と不安に次々と遭遇していた。日本に来て、初めてホームシックにかかった。しかし、ここまで来たからには戻ることはできない、前に進むしかないと自分に言い聞かせた。

如何にバイトと学業を両立させるかについて常に考えている。バイトについては、将来の夢とできるだけ近い職種であるように選択している。例えば、日本人の方に中国語を教えたり、国際交流協会で外国人の子どもたちの学習支援をする活動に参加したり、また大学の授業で先生のアシスタントとして授業に参加することもある。それに、去年5月、高校の非常勤講師になれて、子どもの頃の夢が叶えられた。その現場で見た景色は、私を考えさせ、それがまたいつか次の夢につながるかもしれない。学業については、例え自分の研究が多くの人に認められなくても、そこでくよくよせず、しっかり自分、そして自分の考えを持つようにしている。

今は、目の前の山の頂上を目指して、ここで頑張っている。これからもっと多くの困難に出遭うだろう。しかし、一緒に頑張る仲間がいること、応援してくれる方々がいること、そしてその頂上で待ってくれる先輩方がいるからこそ、どんな困難に遭っても、解決して、前へと進んでいけるのだと思う。

いつかは、きっと目の前の山の頂上に立ち、今経験している苦しみを笑いながら語れるようになると信じている。